親鸞読んで気がついた共通点
親鸞を読んだ。
親鸞の師、法然上人の専修念仏はどこか「信じるものは救われる」という言葉に似ている。いくら悪者でも念仏を唱えれば救われるという教えは曲解され、一度でも唱えればその後悪さもしても救われるという見解が広がった。それでも禁めないのは「信じていさえすれば救ってくださる」と法然は考えていたからなんでしょう。
綽空(シャククウ 親鸞のこと)の人は誰もが闇を抱えている。そんな人を誰も善い悪いでは判断できない。だからこそ皆、念仏を唱えて救われるのを信じよ、という。それは性悪説に似ている。もしくはキリスト教の人は罪を背負って生まれてきたという教えにも近いのかもしれない。
日本史は中学受験レベルしか知らない。その後は中高一貫で高校受験で勉強せず、理系で大学受験でも勉強していない。「南無阿弥陀仏」とか「なんまいだー」とかそんな念仏を唱えるのが昔流行ったのだよという知識しかなかった。大衆に向け簡単にしたけども、深く底に残る教えはしっかりと残っている。
あれこれと学ぶものが増え、ルールが増えた仏教を見つめ直して、大切なことだけに削ぎ落したミニマリズムとも言える再考された仏教が、浄土宗、浄土真宗なのではないか。
だけどもこれはあくまでフィクションであるし、浄土宗も浄土真宗を知っている訳でもないので知ったかぶりはしないように注意します。
おすすめ度:★★★☆☆(個人的には凄く良かった!けどみんな好きかはちょっとわかんない。)